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東彼杵町歴史民俗資料館facabook
 ひさご塚は長崎県の代表的な「前方後円墳」で、長い年月の間に周辺が削られひょうたんの形をしているところから「ひさご塚」と呼ばれてきました。今から約1,500年前にこの地域を治めていた有力な豪族の墓で、地元では、神功皇后の三韓征伐の折り、武内宿禰(たけのうちのすくね)の配下として従軍した武将の墓であると言い伝えられています。
 昭和25年4月、長崎県の史跡として指定され、過去2回の調査が行われ、その結果ひさご塚が造られた時期は5世紀始めごろで、当時の規模は全長58.8m、後円部の直径37.7m、前方部の幅18.5mあったことがわかりました。また、副葬品として鏡や鉄剣などが出土しました。
(1)発掘前の状態
(2)発掘開始
(3)ひさご塚の石室
(4)発掘をする作業員
(5)現在の状態

この他にもたくさん
出土されました。





(9)中国の後漢時代の鏡片
(白井川遺跡出土)
(6)鉄剣・刀子
(7)胴 鏡
(8)まが玉とガラス玉
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 (1)大村湾パーキングエリアの近く瀬戸郷にひっそりとふたつの墓碑がたたずんでいます。 高い方は佛式の墓碑、低い方は高さ65cm、幅51cmの自然石の墓石で、上に花十字、下に「元和(げんな)7年卯(う)月の日付、そして「一ノ瀬志ゆ阿ん(じゅあん)」と彫られています。
 厳しいキリシタン弾圧の中をくぐり抜け、現在まで残った貴重な墓石です。 (瀬戸郷にある「キリシタン墓碑)
 
 (2)(3)(4)禁教令(きんきょうれい)に従わず、京都で布教していた宣教師と信者が豊臣秀吉によって捕らえられ、みせしめのために大阪から彼杵宿まで極寒の中を歩かされた。 慶長(けいちょう)2年(1597年)2月4日の夕方、彼杵浦(そのぎうら)に着いた。最後の地、長崎へと休む間もなく26人は3艘の船で時津(とぎつ)に向かい船出し、翌5日、西坂で殉教しました。
 2月4日には記念行事が行われます。(彼杵海水浴場入り口に立つ「日本二十六聖人乗船場跡」石碑)

(石碑の左)
(石碑の右)
(1)キリシタン墓石
(2)親族御改帳信者一族の
キリスト教調査書
(3)日本二十六聖人乗船場跡
石碑
(4)乗船場跡石碑の脚の部分には、
当時の様子の絵が2枚飾られています
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 東彼杵町を通る長崎街道は、長崎のみが海外に向かって開いていた江戸時代、長崎から江戸へ異国の物産と文化、そして最先端の情報を運ぶ唯一のルートであり、いわば日本のシルクロードとも言える存在でした。
 全長224kmの街道は長崎・日見・諫早より大村・松原を経て今の東彼杵町に入り、彼杵宿から北東に向きを変えて俵坂峠を経て嬉野に向かい、小田・佐賀・神崎・田代・筑前原田・山家・内野・飯塚・木屋瀬・黒崎・そして小倉へと続いていました。
 また、当時長崎と並ぶ貿易港として栄えていた平戸へ通じる平戸街道は、現在の東彼杵町宿郷にある「思案橋」をその基点として、長崎から平戸へ、あるいは平戸から九州各地へ、人や情報を運んでいました。
 さらに、江戸時代初期から明治にかけての数百年間、彼杵は西海捕鯨の中継地として、また鯨肉取引の中心地として栄え、彼杵港に陸揚げされた鯨は長崎・平戸街道を通じて九州各地へと送られていたと伝えられています。
 参勤交代の大名、オランダの甲比丹(かぴたん)、長崎奉行の行列、文人、医者、留学生、商人、芸人など、多彩な顔ぶれが往来する街道には、彼らが旅の疲れを癒す場所として、彼杵と千綿に宿場が置かれました。たくさんの旅人が立ち寄る二つの宿場には、人ばかりでなく各地の農産物や海産物も集まったため商工業が発達し、最盛期には数百軒もの商家が軒を連ねていたそうです。特に彼杵宿には、大名や幕府の役人が宿泊する本陣が置かれたため、港としての機能も併せ、その賑わいぶりも格別だったようです。
 これら長崎街道、平戸街道、そして海路は、ちょうど東彼杵町の真ん中で十字状に交差する形となります。そう、江戸時代の東彼杵町は、まさに人と産物、そして情報と文化の十字路だったのです。
 
(1)街道の風状が漂う瀬戸郷付近の旧動跡。

(2)シーボルトが描かせたという「大村へ向かう山道」岡の上から臨む美しい大村湾の景色は、シーボルトの心に強い印象を残したようです。 (シーボルト日本」図録第二巻より)

(3)才貫田から里に通じる現在の街道跡。右手に弧を描く大村湾の景色と山のシルエットは、シーボルトの絵とほぼ同じです。現在、松の木はありませんが「一本松」という地名は残っています。

 街道は涼しい木陰を縫うように山の際を通るため、比較的起伏に富み、くねくねと曲がりながら続いていました。徒歩で旅する人たちにとっては、たとえ多少の起伏や回り道はあっても、照りつける太陽や吹きつける寒風を避けることが大切だったのでしょう。 

(4)長崎街道の佐賀県との県境、俵坂峠にある領界石。上の部分が欠けていますが、本来は「従是南大村領(これより南、大村領)」と彫られてあり、江戸時代には佐賀藩の領界石とともに寄り添って立っていました。
 明治に入り、一時は行方不明になったものの、昭和になって発見され、現在は元の場所から250mほど離れた国道34号線の東側に立てられています。





(1)瀬戸郷付近の旧街道
(2)大村へ向かう山道
(3)才貫田から里に通じる街道跡
(4)領界石
(1)(2)シーボルトは街道一の大楠として名高かったこの大木を実際に測定しました。「江戸参府紀行」には、周囲約16.9m、直径約5.4mで中の空洞には15人の人が座ることができたと記されています。(シーボルト「日本」図録第二巻より)
 残念なことに大楠は明治年間に切り倒され、樟脳の原料として売られてしまいましたが、その後旧株から2世が萠芽し、今では直径1mを超える大木に成長しています。
 
(3)(4)高い建物が無かった江戸時代は、嬉野へ至る街道からこのように開けてた港の風景が見られたことでしょう。
 元禄年間に築港された波止場は、当時のまま残っており、港の入り口に建つ八坂神社のたたずまいもシーボルトの絵のままです。(シーボルト「日本」図録第二巻より)  

(1)彼杵付近のクスの大樹

(2)現在の大楠

(3)彼杵村付近から大村湾を臨む

(4)現在の旧彼杵港
長崎街道の宿場名
長崎−日見−矢上−永昌−大村−松原−千綿彼杵−嬉野ー塚崎−北方−小田−牛津−佐賀−境腹−神崎−中原−轟木−田代−原田−山家−内野−木屋瀬−黒崎−小倉
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